岩坂彰の部屋

第26回 私はなぜ本を読むのが遅いのか

岩坂彰

翻訳家としてはどうかと思うのだけれども、私あまりたくさん本を読むほうではありません。病院の待合室で1冊読んでしまうような時代小説は別にし て、もちろんそれから、仕事の参考情報として部分的に読む本やウェブページも別にして、最初から最後まで通読するノンフィクションとなると年に数えるほど しかありません。自分でもこうなんだから、私の訳書を読んでくださるお客さんが少ないからといって、まあ仕方がないかなと思わないでもありません。

急ぎのリーディングをしていると、要するに自分は読むスピードが遅いのだということに気がつきます。英語だからということも確かにあるでしょうけれ ど、遅いのは日本語の本でも同じです。目が文字を追っているあいだに、気がつくと他の方向に意識が向かっていて、また元に戻って読み直すということがとて も多いのです。日本語でも、英語でも。

読書中の意識の流れ
第三の脳
著者の傳田氏は某化粧品メーカーで皮膚の研究をしておられる研究員です。いわゆる学者の世界の方ではないせいでしょうか、とても自然に読めます。心が脳だけで作られるわけではないということが、素直に納得できます。

今年これまで読んだ中でいちばん面白かったのは『第三の脳』(傳田光洋、朝日出版社)という本です。たまたま書店の店頭で見かけて買ったこの本、 2007年の出版ですが、3年経ってようやく気がつく読者もいるのですから、書店さん、棚揃え大変だと思いますけれども生き残れる本は残してやってくださ いね。この本を例に、読書中の私の頭の中を覗いてみましょう。

まず、『第三の脳』というタイトルと、「皮膚から考える命、こころ、世界」というサブタイトルから、ははあ、これは例の「腸の神経系は脳から独立し ていて、第二の脳と言える」という話を受けて、皮膚が第三の脳だとぶち上げる本だな、と予想はついています。「例の」と言われても読者は困るでしょうが、 まあとりあえず。

以下は、読んでいる間の私の意識の流れの再現ビデオです。青は本に印刷されているテキスト(あるいはテキストそのものに沿った私の意識)、そしてオレンジは私の<脳内>、つまりテキストから離れた私の意識です。

第三の脳宣言[きたきた。やっぱり「ぶち上げる」んだな]
脳とはなんでしょうか? わかりきったことだと思われるかもしれませんが、ちょっと考えてみましょう。

解剖学的には簡単です。ヒトの場合、頭の中、頭蓋骨の中にあるしわだらけの豆腐のような物体が脳です。[そ ういえば昔、本当は灰色の脳が茶色だと思っていた頃があった。あれはやっぱり「脳みそ」という言い方からだろうな。いやちょっとまてよ。灰白質とか言って も、生きている間は血液が流れているんだから、やっぱり茶色っぽいんじゃないだろうか……(ウェブの画像検索で確認)……なるほどね]

<中略>

さらに今は、大抵の[お、「たいてい」に漢字を使うか。]人が、こころは脳にあると信じています。[そうかな。僕はどうだ? 厳密にはそう思ってないな。たいていの人は……うーん、どうかな。心は脳の働きの産物だとは思っているだろうけれど、「脳にある」と思っているかな。まあ、おいておこう(すでに目は3行、行き過ぎている。3行戻る)]
こころ、というものもあいまいなものですが、気分や感情、そういうものを包み込んだ精神現象とでも言いましょうか。[うん、それなら問題なし]こころについて論じ始めると、哲学めいてきて長くなりますので、とりあえず簡単に定義しておきます。後でいやおうなくこころについては考え直す必要がでてきます。[うんうん]こころ、あるいは魂は脳にあるわけじゃない、という主張もありますが、これも後ほど重要な課題になってきますので、ここでは触れないでおきます。[いいねえ(つまり、心の座が脳かどうかということに、あとで触れるわけだ)]

以上の前提で、脳の機能について多数派の意見は、情報需要、情報処理の要である。平たく言うと、感じ、考え、判断し、行動する指示を出す臓器だということに落ち着きます。[はい]

「じゃあ消化器も同じだ」と消化器の研究者、ガーション(Gershon)博士が言い出しました。[あ あ、例の話はガーションという人が言い出したのか。(「例の」というのは、前に訳した『確信する脳』の原文に、普通は違う意味を持つ neuroentericという単語が使ってあって、それがおそらく「第二の脳、消化器神経系」enteric nervous systemのことを指しているのだろうという結論に至るまでにだいぶ苦労した経験を思い出している)しかしガーションという名前に覚えがないということ は、ちょっと調査不足だったかもしれないな。調べなおしたほうがいいかなあ。でも間違いでしたなんてことになったらいやだなあ。それでもなあ、うん、あと で調べよう(10行くらい行き過ぎている)]ずいぶん昔のことですが、モルモットの消化管を入口から出口まで、つまり口から肛門まで取り出 して培養液に漬けて生かしておき、その消化器のみの状態で何が起きるかを観察するという実験がありました。入り口に錠剤状のものを押し込んでやると、取り 出された消化器の管が動き始めて、入口のものを中の方にぐりぐり移動させ、やがて出口から出てくるのです。もちろん、この培養液の中の消化管には脳はつな がっていません。[(ぐりぐり移動する絵が頭の中でぐりぐりと動いていて、「もちろん」以下は読めていない。戻って読み直す)]

<中略>

そして「機能として消化器は脳と同じじゃないか。感じ、判断し、行動する指示を出す。そうだ。消化管は第二の脳だ!」と主張し、『第二の脳』Second Brainという本を著しました(邦訳『セカンドブレイン』古川奈々子訳、小学館)[う、 邦訳まであるんだ。これはまずい。……(「第二の脳 ガーション」でウェブ検索)……一般認知度はまあまあか。うん、あの翻訳で表現上の問題はなさそうだ な。それにしても、第二の脳、コーヒーエネマ関係のブログに引用されているのが多いな。コーヒーエネマかあ。(コーヒー浣腸。私のイメージでは、エビデン ス不足にもかかわらず科学性を装っている民間療法の代表格)腸はそのくらい大切な臓器だから腸の正常化が大事だって理屈だろうな。しかし腸の神経系が自律 的に機能するってことと浣腸とは関係ないのにな。いや、関係ないことはないというか、身体である以上全部関係しているんだけれども、それを言うなら腸だけ じゃなくて全部関係してるじゃないかって話だよね。皮膚ももちろん。あ、この本はそういう話か。いや、第三の脳だというくらいだから、皮膚の自律性を言う のかな。でも、いずれにしても全部つながって機能しているんだから、腸だ皮膚だって言わずに、全部ひっくるめて脳だというほうがあたってると思うぞ。しか しそうするともはや「脳」と言う必要はないか。身体は身体全体が司っていて、意識は身体全体から生まれるということか。まてまて、環境との相互作用がない と身体も意識は成り立たないわけだから、心の座っていうのは結局……わ、なんかスピリチュアル。(このとき目はすでに画面を離れて宙にただよっている)]

いや、ひどいですね。実は、この描写はだいぶ現実と違います。差し挟まれる意識の流れは、実際はこんなに言語化されていないのです。なにか一瞬、視 覚的でも聴覚的でもないイメージが浮かんで、そこに注意を向ければ上のような言葉になるというようなものです。ただし、この中で最後のオレンジ色の後半あ たりは、意識内で誰かに向かって語る感じになって、言語として展開されていきます。ですからけっこう時間をとります。さらに厳密に言うと、こういう部分で も言語として展開される前にその内容のロジックのようなものが一瞬のイメージとして浮かんで、そこから言葉が展開されているという感じがします。それは、 こういう文章を書いているときも同じなんですけれども。

脳の機能の問題?

上の例で言うと、注意が文章から離れていくのは、何か他に興味あることがあってそちらに引っ張られていくように見えますが、必ずしもそうとは限りません。

脳の機能の問題?
視野闘争(binocular rivalry)を体験できる画像はウェブで検索すればたくさん出てきますが、大半は、立体視のように、左右のそれぞれの目で別々の図を見なければなりません。指を通して遠くを見るやり方のほうがずっと簡単だと思うんですけどね。

 手を伸ばして指を立て、その指を通して壁のカレンダー(でもなんでも)を見てください。両目の焦点をカレンダーに合わせると指は2本に見えます。 指と数字が重なる部分は、片目で指、反対の目でカレンダーを見ているため、指が透き通ってカレンダーの数字が見える感じになります。しばらく見ていると、 ときどきすうっと指が消えたり、逆にカレンダーの数字が指に隠れて見えなくなったりする現象が起こります(視野闘争)。脳科学的な説明はまだついていない ようですが、まるで右目と左目の神経が交代でときどき休んでいるような感じです。私のテキストへの注意も、消え方がこの現象とよく似ていて、ある程度の時 間が経つと意識が文字からすうっと離れていくように感じるのです。まるで、左脳か右脳が一休みしたがっているように。あるいは本当にそうなのかもしれませ ん。そういえば学生時代にクレペリンテストというものを受けさせられて、あるところまでいくとぴたっと足し算ができなくなるという不思議な経験をしました が、私の脳はそういうタイプなのでしょうか。ちなみに筋肉も瞬発型で持久力がありません。

ともかくそんなわけで、私は本を読むのに時間がかかります。小説の場合は一気呵成にラストまで、ということもありますが、どちらかというとそういう 「引きこまれる」話よりも、ときどきふと我に返らせてくれるような余裕のある運びの物語のほうが好きです。一気に読ませる話というのは、まあそれはそれで 面白いんですけど、読み終わったらそれっきりということが多いです。遊びのあるものは、何度も読み返したくなります(何度も読み返すというのも、読書量が 多くない理由ですね)。情報を仕入れるだけなら速読法もいいですが、結局、そんなふうに飛ばして本を読みたくないという気持ちもあります。

読み方の追求

個人的な話を離れて、テキストを読むという行為に、こんなふうにあらためて目を向けてみると、テキストの全体的ロジックというのはDNAがRNAに 転写されていくように、そのままの順番で読者の頭に刷り込まれていくわけではなさそうです(実はDNAの転写もそんなにシーケンシャルなものではなくて、 跳んだり切れたりするらしいので、その意味ではDNA転写のアナロジーというのは意外と適切かもしれませんね)。断片的なシーケンスが読者の頭の中で縄の ように縒り合わされて内容が再構成される、という感じでしょうか。

テキストそのものだって1本の均一な化学繊維のようにできているわけではなくて、やっぱり縄ですよね。私の文章なんて縒りがゆるくてすぐにばらばら になってしまったりするわけです。原文の書き手から翻訳の読み手へのロジックの伝達には、テキストレベルの要素や文化的背景といったことだけでなく、読書 行為に含まれるこういった微妙な認知的要素も関わっているのだろうということに、今、気がつきました。翻訳理論の研究には、このようなレイヤーも含めなけ ればいけないんでしょうね。でも、私が知らないだけで、きっとそういうことを追求している人はどこかにいるんだろうな。

英語の本は長い?

もう一つ、リーディングをしながら自分で読むのが遅いなあと感じるとき思うのは、英語の本というのは概して内容に対して単純に長いんじゃないかとい うことです。この程度の中身なら日本だったら新書だよな、というような本が300ページもあったりします。これについては機会をあらためて考えてみたいと 思っているのですが、読み方の違いということも関係しているのかもしれません。

いくら欧米と日本とでは余暇の時間が違うといっても、英語文化圏の人がそんなに時間をかけて本を読んでいるとも思えません。300ページのハードカ バーでも、日本の新書を読む程度の時間(重いものでも4、5時間?)で読んじゃったりするんでしょうか。1ページ1分なら、ありえないことではないです ね。だとすると、私が1ページ5分以上かかるというのは問題外としても、それを翻訳して日本語で300ページ以上(だいたい翻訳のほうが原書よりページ数 は多くなります)の本にするのは、機能的等価と いう観点から間違っているということになりませんでしょうか。目的によっては、抄訳して新書にするのが正しい選択、ということになるのかもしれません。あ るいは、そういう本はそもそも翻訳するべきではないのか。内容に共感した人が、(ロイヤリティではなくライセンス料を払って)同じネタで新書を書くという のはどうでしょうか。言ってみれば書籍のローカライズですね。

なんだかずいぶん大きなテーマに持ってきて誤魔化した気分になっていますが、要するに、私は読むのが遅い、という話でした。

(初出 サン・フレア アカデミー WEBマガジン出版翻訳 2010年11月1日 第4巻174号)